最近は日本全国に牛タンのお店がありますよね。
焼肉屋でも定番ですし、牛タンってとっても人気がある食べ物です。
私は東京から仙台に移住した人間なんですが、牛タンと言えば仙台です。まぁ、仙台じゅうに牛タンのお店があります。
でも、なんで牛タンは仙台の名物なんでしょうか?
日本人が牛肉を食べるようになったのって、明治以降のことだって言います。歴史の浅い牛肉の食文化の中で、更に牛の舌なんてマイナーな部位をなぜ食べるようになったんでしょうか?
調べるてみたら、実は諸説あるようですよ!
そこで、今回はなぜ牛タンの発祥は、仙台とされているのか、その歴史について調べてみました。
仙台牛タンの歴史
早速、仙台の牛タンの発祥の歴史を見ていきましょう!
仙台牛タンの歴史は、やはり浅くて、太平洋戦争の前後の時代に遡ります。
牛タンを塩焼きするという今の食べ方を考案したのは、仙台の牛タンの名店「味太助」の初代、佐野啓四郎さんでした。
それまでは、もつ焼きやもつ煮込みのような食文化が、日本にはありました。
しかし、啓四郎さんは昭和10年代に東京で和食の修行中に、フランス料理のシェフから牛タンシチューなどの料理から牛タンの味を学びました。それ以降、日本人向けの牛タンの美味しい食べ方の研究を始めました。
やがて、戦後を迎え、啓四郎さんも屋台で焼き鳥を売っていましたが、ヒット商品を生んでもすぐに周りに真似されてしまうことから、オリジナルの誰にも真似できない料理を考え出すという情熱の元、牛タン焼きを生み出しました!
つまり、現代の日本で一般的な食べ方を考案したのが、仙台の料理人である佐野啓四郎さんで、それを真似した後発のお店も含めて、牛タン焼きが仙台で広まったんです。
でも、当初牛タンはあまり仙台の街でも広まりませんでした。やっぱり、珍味の域を出なかったんですね。
しかし、高度経済成長期に入ると、他の地域から出張で来るビジネスマンの間で、仙台の牛タン焼きが人気になりました。
「仙台に行ったら牛タンを食べてこないともったいない!」みたいな風潮が広まって、全国的に有名になったわけです。
これがきっかけになって、全国に仙台牛タンが名物として定着したわけです。
味太助の仙台本店はこちらです。
もう一つの説
牛タンが広まったもう一つの理由には、戦後のアメリカ軍の進駐という説があります。
アメリカ人は牛肉をよく食べる食文化です。ただ、アメリカ人の食文化では、牛の舌や尻尾の部分は食べないため、その部分だけは余りました。そのため、余った舌や尻尾の部分を、日本人が入手して、食べるようになったというのです。
牛タン定食に牛テールスープが一緒に出てくるのはこういう理由からとされています。
ただし、こちらの理由は嘘という意見もあります。
アメリカ軍が食べるための牛肉がアメリカ本土から入荷される時には、舌や尻尾などの部分は最初から運んできていないからという理由です。
そして、アメリカ軍説を否定する人たちは、ちゃんと周辺の県から、国産の牛タンを仕入れて使っていたとしています。
でも、実際にはアメリカから輸入される牛肉の中には、牛タンの部分もあったようです。また、他ならぬ佐野啓四郎さん自身が、アメリカ産の牛タンを使っていたことを公式に認めています。
実際のところは、国産もアメリカ産も使っていたというのが、実態ではないでしょうか^^;
まとめ
仙台の牛タンは、一人の和食料理人の情熱と戦後の食糧難の時代が生んだ名物だったんですね!
そう考えると、お好み焼きやうどん、ラーメンの粉もんの食文化など、日本の庶民に愛される食文化の多くは戦後に生まれています。食べ物に限らず、様々な発明や飛躍は困難な状況と人間の情熱によって生まれています。私も何か歴史に残ることをしたいなぁと思いつつも、牛タンのこと書いてたら、もはやガマンできなくなってきました。
私は夢や野望を抱くよりも、やはり目の前の食欲の方が勝るタイプの人間なので、牛タン定食を食べに行きたいと思います!