毎年、7月7日に全国的に行われる行事と言えば七夕ですよね。織姫と彦星の伝説はあまりにも有名です。
笹の葉に願い事を書いた短冊を括り付けることは、誰でもやった事があるのではないかと思います。
そんな日本ですっかりお馴染みの七夕ですが、私には小さい頃からずっと疑問に思っていることがあります。
それはなぜ七夕の読み方が”たなばた“なのかということです。どうしたらこの字を”たなばた“なんて読むことができるんでしょうか?
七にも夕にもこんな読み方は、存在しません。
いったいなぜこんな読み方をするのでしょうか?
というわけで、私の子供のころからの疑問である七夕の読み方の由来を調べたので、皆さんにも共有しちゃいます。
目次
七夕の読み方の由来
実は七夕の読み方の由来には、諸説あります。
最も有力なのは、次の2つです。
- 古事記の棚機津女(たなばたつめ)の伝説
- 牽牛と織女の役割から
それぞれがどういう由来なのか、順番に説明しますね。
古事記の棚機津女(たなばたつめ)の伝説
1つ目は古事記の中の棚機津女の伝説が由来と言うものです。
七夕の時期である、旧暦の7月15日は水害の多い時期でした。
そのような災厄を避け、豊かな実りを祈願するために、棚機津女という乙女が、水神に捧げるための“
この神衣は川や海のほとりに作られた、棚と呼ばれる機織り専用の神聖な場所で作られました。
そのため、棚で神衣を折る乙女のことを
棚機津女は神衣を織って捧げるだけでなく、水神の妻となって子供を身籠り、彼女自身も神様になったというのが、棚機津女の伝説です。
そして、この
この歌の原文は当て字で書かれていて、普通に読んでも何のことか分からないので、現代の仮名と漢字に直したものを載せておきますね。
⇒天にあるか、妹の織り女の首に懸けた珠飾りの光は…。あら、その光は阿治志貴高日子根の神が放つ光が2つの谷を越えて届いたものですの。
でもこれって、私たちの知っている七夕の伝説とは違いますよね?
実は私たちにお馴染みの七夕の伝説は、中国の牽牛星と織女星の伝説と、
中国における牽牛星と織女星の伝説は次のようなものです。
天の川の東側に織女という女性がいました。機織りの仕事をしていて、身なりを整えるる暇すらないほど忙しかったため、天帝は織女を憐れみました。そこで、天の川の西にいる牽牛と結婚させました。しかし、牽牛と結婚した織女は、機織りの仕事を止めてしまったため、天帝は起こりました。そこで、織女を天の川の東側に戻し、1年に1度だけ会えないようにしました。
これは私たちの知ってる七夕の伝説にだいぶ近いですよね?
また、乞巧奠は7月7日の夜に行う、織女の機織りの技術向上を祈願する祭のことです。
この牽牛星と織女星の伝説と乞巧奠が奈良時代に日本に伝わりました。そして、7月7日の夜に行う祭であることから
やがて、それが日本の棚機津女の伝説と合わさり、読み方も
牽牛と織女の役割から
2つ目はもっと単純で、牽牛と織女のそれぞれの仕事から来たものという説です。
牽牛は農耕が仕事で、織女は機織りが仕事でした。これらの仕事にちなんだ言葉に
この
こっちはだいぶ単純ですね。
以上が七夕の読み方の由来です。現在、最も有力とされているのは、1つ目の棚機津女の伝説です。
でも、実は別の説もあります。
こっちはロマンの欠片もない、単なる勘違いが原因だったりします。
というわけで、次はその勘違い説を紹介します。
もしかすると単なる勘違いだった!?
3つ目の説は、民間行事が由来というものです。
既に説明した通り、当初の七夕は、色んな伝説や祭りが合わさってできた、
しばらくは宮中で行われていた行事だったのですが、やがて、それが民間に広がっていきました。
しかし、元々、農村地域には豊作を祈願して種を撒く
農民の間では、同じ時期に行う行事であることから、
元から色んなものが合わさってできた
この説の場合は、農村の豊作祈願が由来になってしまうので、ちょっと興ざめかもしれないですね^^;
まとめ
七夕の読み方の由来は、様々だったんですね。
今回紹介した3つの説を簡単にまとめておきます。
- 古事記の棚機津女(たなばたつめ)の伝説
- 牽牛と織女の役割から
- 農村の種播(たなばた)祭りから
中国の牽牛星と織女星の伝説と乞巧奠に、古事記に登場する
牽牛の仕事の
元々、農村地域で行われていた
こうして見てみると、日本の七夕の伝説と言うのは、様々な伝説が合わさったフィクションなんですね。
子供の頃は、1年に1度しか会えない、織姫と彦星に同情したものですが…。フィクションだったということの方が意外でした。
もし、皆さんの身の回りに、七夕の読み方に疑問を持っている人がいたら、華麗にその由来を説明してあげてくださいね!