聖書の『復讐するは我にあり』の意味!あなたの使い方は間違ってます!

クリスチャンの私にとって、聖書の言葉の間違った使われ方って、気になっちゃうんです。

『復讐するは我にあり』もそのうちの一つです。

何だかもの凄く恨みのこもった意味のように思われがちですよね?でも、本来の意味は全然違うんですよ!

「絶対に復讐してやるぞ!」なんて、決意を表す意味で、使う人が多いんですが、その使い方は間違いなんです。

でも、なぜそんな意味だと誤解されてるんでしょうか?

そこで、今回は『復讐するは我にあり』の本当の意味と、間違った使われ方をしている理由をお伝えします。

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目次

「復讐するは我にあり」の意味

それでは、早速「復讐するは我にあり」の本当の意味から見ていきましょう。

「復讐するは我にあり」という言葉が、世の中で使われるようになったのは、作家の佐木隆三の小説「復讐するは我にあり」その小説を原作にした同名の映画がきっかけです。この作品は西口彰事件を題材にした長編小説で、作者の佐木隆三は、主人公を特に肯定も否定もしない気持ちを込めて、このタイトルにしたそうです。

でも、作者がこのタイトルを付けた理由は横に追いやられ、タイトルである「復讐するは我にあり」だけが独り歩きをしてしまって、多くの人がこの言葉の意味を誤解してしまっているんですよね…。

プリント

誤解されている使い方

一般的に「復讐するは我にあり」という言葉を使う場合、誰かに対して報復を強く誓う意味で使ったり、自分にはその人に復讐する権利があることを主張する意味合いで使います。

『必ず復讐してやるぞ!』という強い意味が込められた言葉として、誤解されているわけです。

でも、本来の意味はまったく逆なんですよ!

正しい意味

この言葉の本来の意味は、

「相手から傷つけられても、報復せずに穏やかな心で過ごしなさい」

という意味なんです。

とてもそんな意味の言葉に思えないですよね?それもそのはず、この言葉は一部だけが切り取られた言葉なんです。

「復讐するは我にあり」という言葉は、元々は聖書から引用されている言葉です。

できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
<ローマの信徒への手紙12章18節~21節(新共同訳)>

本来の意味が分かるように、前後の部分も載せています。

この中のとは、神様のことです。つまり、「誰かから悪いことをされても、悪で返さず善い行いで報いなさい。私(神様)が代わりに報復(裁きを与える)するから、自分で復讐しようなどと考えずにあらゆる人達と平和な関係を作りなさい。」という意味です。キリスト教では、

全ての人は死んだ後に裁きを受けて、天国に行くか地獄に行くかが決まります。悪人は裁きの時に必ず地獄に行くのだから、あとは神様にお任せしなさいということなのです。

本来の意味は復讐しちゃいけないよ!という意味なのです。多くの人は全く逆の意味で使ってしまっていますね…。

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なぜ誤解されちゃってるの?

世の中の多くの人が、意味を間違って使っている理由は、実はとってもシンプルです。

「復讐するは我にあり」という部分だけが切り取られてしまっているため、この言葉の由来を知らない人は、”我”が神様のことだと分からないのは当然ですよね。

あまりにインパクトが強過ぎて、「復讐するは我にあり」だけが独り歩きしちゃって誤解を生んでしまったのかもしれません。

“本来は恨みや復讐心など完全に捨てなさい”という、極めて平和な意味なので、皆さんも正しい使い方をしてくださいね!

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まとめ

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佐木隆三さんは、もちろん本来の意味や由来はご存じだったでしょう。でも、「復讐するは我にあり」の由来を知らない人にとっては、小説の内容と重なって違う意味に誤解されちゃったようです。

最後に改めておさらいしておくと、「復讐するは我にあり」の本来の意味は、

「相手から傷つけられても、報復せずに穏やかな心で過ごしなさい」

です。

文学作品なので、深い意味を込めてタイトルを付けるのはよくあることなので、これはこれで間違った使い方だとは思いませんが、言葉自体は本来の意味をちゃんと知ったうえで、正しく使うのが良いですね!

私も日々平和にみんなと仲良く暮らせるように「復讐するは我にあり」の言葉通り恨みは、神様に預けて生きていけるように頑張りたいと思うのでした!